下村和也

差別とアクセシビリティ

アメリカに留学していた時に、痛感した日米のアクセシビリティや差別に対する考え方の違いについて書いてみようと思います。

聞こえなくてもできることを突き詰める

私は、日本で、「聞こえなくてもできることを突き詰める」ことが、聴覚障害者の生きる道だと思っていました。大学1年生の頃から、ひたすら勉強をして、大学4年次に公認会計士試験に合格しました。その後、程なくして、大手監査法人から健常者と同じ条件の素晴らしいオファーを手にすることができました。それは一つのサクセスストーリーだと思います。

しかし、「聞こえなくてもできること」をどれほど突き詰めても、競争の激しい組織では、出世できないことに気づきました。

持っている能力をフルに発揮するには、音声情報の壁を克服する必要があると思うに至りました。

具体的には電話や会議ができないことが、仕事上の大きな壁になっていたのです。

 

どれほど「聞こえなくてもできること」を突き詰めても、電話や会議はできるようにはなりません。

「音声情報だけだとコミュニケーションが成立しない」という、一番最初の壁はずっとそこにあるのです。

その壁を取り除くために私が着目したのは、テクノロジーでした。iphoneのsiriやgoogle voiceのテクノロジーは聴覚障害者の耳になりうると考えました。

そして、4年半勤めていた監査法人を退職し、音声認識のテクノロジーの本場、アメリカでコンピューターサイエンスを学ぶことに決めました。

アメリカにて

いくつものアプリケーションをクリアし、いざ、アメリカに渡ってみると、そこは私の想像をはるかに超えるバリアフリーの世界でした。

私が「聞こえなくてもできることを突き詰める」しかないと思っていた、聴覚障害者の生きる道は、あっさり否定されました。

聴覚障害者もいきいきと意見を述べて活躍する社会があり、手話通訳者やパソコン通訳者が社会的地位を確立していました。

アメリカでは手話通訳者の平均給与は500万円を超えています。

テクノロジーの出現を待つまでもなかったのです。

聴覚障害者の壁の乗り越え方

結局のところ、聞こえる人の力を借りれば、聞こえなくても聞こえる人と同じ土俵に立てるのです。聞こえる人というのはこの社会では、多数派です。豊富なリソースがあるのです。

それは私にとって、大きな驚きでした。社会全体がそういった仕組みを作ることに対してとても前向きで、聴覚障害者も彼ら自身の努力で応えていました。アメリカなら私はもっと飛躍できると確信しました。

アメリカと日本の差別の定義の違い

なぜ、日本の聴覚障害者を取り巻く環境と、アメリカの環境はこんなにも違うのでしょうか。

理由は、いくつもあると思います。聴覚障害者自身に問題がある場合もあるでしょう。一方で、社会の無理解に原因を求めることもできるでしょう。

前置きが長くなってしまいましたが、これから、アメリカと日本のアクセシビリティと差別に対する考え方の違いを取り上げてみたいと思います。

アメリカの差別の定義

アメリカでは、障害者がぶつる物理的な壁が存在するという"事実"を差別と考えています。

例えば、車椅子の人が、段差があるためにある場所に行けなかったとしましょう。この時、段差があるという"事実"が既に差別なのです。

差別だと認識されたなら、社会としてその壁を取り除こうと努力をします。これをアクセシビリティを確保するといいます。アクセスすることができるようにするという意味です。

日本にもアクセシビリティに相当する言葉はあると思いますが、障害者の見地ではずっと軽い響きだと思います。その言葉は"便利"です。

車椅子の彼/彼女は社会に訴えることで、味方がどんどん増えていきます。孤独な戦いを強いられることはないのです。なぜなら段差があるという事実(そして、それが差別であるということ)を多くの人で共有できるからです。

この物理的な壁がある"事実"が差別だという考え方は、聴覚障害者の世界にも鮮明に現れています。

アメリカにはリレーサービスという聴覚障害者向けの電話サービスがあります。リレーサービスを利用することで、聴覚障害者は手話通訳者を介して、電話の相手先とコミュニケーションを図ることができます。日本でも日本財団の支援のもと、少しずつ形にはなっていますが、日本のNTTに相当する大企業であるAT&Tがサービス主体となっているアメリカとの違いはとても大きいと思います。

ADA法

それだけではありません。もしも、会社に聴覚障害者がいて、その人が会議に参加しているとします。彼/彼女はもちろん、単独では、会議のやりとりについていくことはできません。このような状態は、まさに聴覚障害者が物理的な壁にぶつかっているという"事実"になります。この状態を放置することは差別を放置していることになります。

アメリカ社会は、このような状態の聴覚障害者に対しては、手話通訳をつけるべきだと法律で定めました。ADA法といわれるこの法律は、障害者のアクセシビリティを確保しなければならないと定めています。

冒頭で私が述べた、一番最初の壁を思い出してください。

電話や会議です。

アメリカ社会は、私にとって壁のない社会を作り上げていたのです。同じ地球の同じ時代に。

日本の差別の定義

翻って日本ではなぜ、障害者がこんなにも能力を発揮しづらいのでしょうか。

私が「電話ができないのは差別だ!」と訴えたところで、どれだけの人が賛同してくれるのでしょうか。おそらく電話会社でさえ理解を示しはしないでしょう。

聴覚障害者が電話ができなかったところで、それは当たり前で、その事実だけで、ひどい扱いを受けたと考える人はほとんどいないのではないでしょうか。

私は、日本での"差別"の定義は、感情によって定義されていると思います。

例えば、聴覚障害者が就職活動の面接で、「耳が悪いとなかなか一緒に仕事しにくいよね。」という理由で落とされたとします。おそらくその人はひどく傷つくでしょう。なぜなら、自分にとって不可抗力の理由によってひどい扱いを受けたからです。この時、多くの日本人はこれを差別だと考えてくれるのではないでしょうか。日本では人からひどい扱いを受けて初めて差別になるのです。

日本では、"事実"ではなく"ひどい扱いをされたという感情"によって、差別を定義するために、差別という言葉はあまり社会に対する影響力を持たないように思います。

同情や怒りの感情によって、やり過ごされてしまうからです。

社会が進歩するためには差別の定義を見直さなければならない

物理的な壁が存在するという"事実"を差別の定義にすることで、取り除くべき壁が明確になります。

アクセシビリティは障害者から障害を取り除いてくれます。そして、そのような社会はどんな障害者も希望を持って生きることができるのです。

まとめ

差別の定義が日米で違う。

アメリカ...障害者がアクセスできない壁があるという事実が差別

日本...障害者がひどい対応をされ、傷ついたという感情が差別

異なる差別の定義は、異なる社会を作る

アメリカ...物理的な壁を取り除きアクセシビリティを確保しようとする

日本...ひどい扱いをされてかわいそうと同情してくれる